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インタビュー #3 三上博史さん


INTERVIEW


三上博史


所沢には、「街について何か知りたいことがあれば、この方に聞けばよい」という人物がいます。所沢の街についてだけでなく、歴史や文化を知りつくししている方。そう、元町にある「野老澤町造商店(ところざわまちづくりしょうてん)」のスタッフで、みんなから“ 髭爺”の名で親しまれている三上博史さんです。御年81歳(2018年時点)ながら、伝承ボランティアとして精力的に活動を行い、数々のイベントの企画をはじめ、市民大学での講演や所沢の町歩きガイド(ガイドの講師も兼務)、小学校の課外活動における歴史のレクチャーなど、さまざまな方面で活躍されています。

野老澤町造商店では、所沢の歴史を紹介する企画展が定期的に行われていますが、中には商店街でかつて配られていた“手ぬぐい”の展示や、明治から大正時代までの“引き札” (昔の広告チラシ)展など、三上さんならではのユニークな視点で歴史を紹介した企画も数多く開催。また、三上さんが2000年に立ち上げたホームページ「所沢ふるさと散歩」には、所沢の町の歴史や飛行場としての歴史が非常に詳しく、わかりやすい文章で紹介されています。

三上さんは、どんな事をきっかけに所沢の歴史に興味を持ち、現在どのような思いでボランティアを続けていらっしゃるのでしょうか。昔の町の思い出と共にお話を伺いました。

 

三上 博史(みかみ ひろし)さん
1937年、所沢市生まれ。ファルマン通りにある商家の5代目で、生粋の所沢育ち。大阪にあるメンズファッション関連の企業に就職し、主にネクタイやアクセサリーの商品企画を担当。当時は世界的に有名なデザイナーのブランドや、百貨店のオリジナルブランドなどの企画も行っていたという。定年退職後は町おこしのボランティアに参加。その後地域活性化の拠点となる「井筒屋町造商店」を仲間と共に立ち上げ、数々の企画展を開催する。

現在は移転した「野老澤町造商店」のスタッフとしてイベントの企画を行う他、講演や町歩きガイドの講師などで活躍。コレクション好きで、好きな映画のパンフレットやネクタイ、商店の手ぬぐいなどを展示した企画展を開催したこともあるとか。毎朝自宅から15分かけて自転車で通い、ジムのプールにも通うバイタリティ溢れる80代。SNSも活用し、Facebookでは友達800人と繋がっている。

 
 

所沢の町歩き

所沢の町歩きガイド

小学校の課外活動

小学校の課外活動における歴史のレクチャー

手ぬぐい展

商店街でかつて配られていた“手ぬぐい”展

引き札展

明治から大正時代までの“引き札”展

 
 

定年退職後に使い始めたパソコンでホームページを作成。
実家周辺の歴史について調べるうちに、町の歴史の虜に 

 


――「所沢ふるさと散歩」には、所沢の歴史をとても詳しく載せていらっしゃいますね。あのホームページはご自身でつくられたのですか。
 
「そうです。60歳で仕事を退職した時に、息子から写真などの整理をするのにいいからとすすめられましてね、それで初めてパソコンを使い始めたんです」
 
「そこで初めてインターネットを見て、ホームページというものを知った時にこれは面白いなと思って。それで自分でホームページをつくってみようと思ったのです」
 
「一番最初は自分史を絡めたものから始めようと思い、青春時代に出会った音楽や映画などを振り返る「博史の昭和青春グラフィティー」というホームページを作ったんです。でも、その時はホームページビルダーなんて知らなくてね。全部独学でタグ打ちをしてホームページをつくったんですよ」
 
――パソコンを始められたばかりなのに、独学で作成されたのですか!
 
「何しろ好奇心が強かったですからね。メールを通じて知り合った24歳の若者と、アメリカ旅行に行ったこともありましたよ」
 
「私がアメリカの西部劇が好きでしたからね、こんなじいちゃんでもいいって言うので、アメリカ西部地域(ラスベガスからコロラド州デンバーまで2400キロ)をレンタカーで回ったんです。そんな事もホームページには載せています」
 
――そういう事があったから、今でもSNSで若い方達と自然に交流が図れるんでしょうね。
 
「そうですね。その頃から街のオフ会などにも参加していましたよ。一緒にカラオケに行ったり、食事に行ったりね。年を取っているのは私だけでしたけれど。だから、インターネットを通じての交流は20年前から続けていました」
 
――所沢の歴史に関するホームページを作るきっかけは、何だったのですか。
 
「インターネットで調べたら、所沢の歴史が載っているページがその当時はまだなかったんですね。それで、自分で調べてつくろうかと思いまして、古本屋に行ったり、いろんな講座に出て調べ始めました」
 
「調べ始めたら、私の実家(ファルマン通り交差点そば)近くにある坂稲荷神社に文化財が2つもある事を知ったんです。それで益々興味が沸いて調べていくと、私の実家の目の前に所沢最初の警察署ができていたことがわかりました。家の前の細い通りが引又道(かつて物産を引又河岸<現志木市>まで運ぶためにあった道)だったという事にも気づいたんです。ファルマン通り交差点は、ちょうど江戸などに続く道が放射線状に集まる交通の要衝でしたからね。私の実家のある所が引又道の入口で、だから稲荷神社もあったんだとわかったわけです」
 
――ご実家周辺の歴史から興味が広がっていったのですね。
 
「そうなんです。もっと言えばね、そのお稲荷さんの隣で生まれ育った三上文筌(みかみぶんせん)という画家がいるんですけど、その人はペリーが浦賀に来た時の肖像画を描いた人で。私の家の5軒隣には福泉藤吉という、江戸時代の将棋の名士もいましたね。それと、ところざわまつりでお囃子をするでしょう。重松流祭囃子(じゅうまりゅうまつりばやし)って言うんですけど、それもこの周辺に住んでいた古谷重松という方が編み出したお囃子なんです。その方は多摩の方まで教えに行っていたから、今では140ぐらいの団体が全部同じ演奏をやっていますよ」
 
――元々歴史はお好きな方だったのですか。
 
「いえいえ、全く。私は郷土史より、映画や音楽の方に興味がありましたからね。だから、初めは所沢の歴史に関するホームページを作るなんて、思ってもみませんでした。だけど調べていくうちに、いろんな事がわかっていく過程が面白くて。それで本腰を入れて歴史の勉強をするようになったんです」

 
 


所沢 坂稲荷神社

三上さんが郷土史に興味を持つきっかけとなった坂稲荷神社

 
 

一部の人達と野外映画会などから始めた町おこし。
今では駅周辺の人達と共に取り組む、大きなイベントに

 


――町おこしのボランティアを始められたのは、いつ頃からですか。
 
「ちょうどその頃からですね。TISパートナーシップという、所沢・入間・狭山共同の団体が町おこしのイベントをいろいろとやっていましてね。私も青年会議所の若い人達と一緒に、さまざまな企画に関わり始めました」
 
「その当時はスカイライズタワー向かいの仏壇屋さんの裏に、まだ3階建ての蔵が残っていたんです。そこをみんなで雑巾がけしてね。たまたま講座で知り合った所沢市文化財保護委員の宮本八恵子さんに、『所沢飛白(かすり【絣・飛白】)※紺地に白く飛んだような柄の織物』のお話と持ち込んだ織機での実演をして頂いたり、民話のCDも出した幼稚園の園長先生に所沢の民話を話してもらったりしました」
 
「新所沢にある『ムラマツフルート(株式会社村松フルート製作所)』はご存知でしょうか。世界の一流のフルート奏者の楽器はみんなそこでつくられているのですが、そこの人達のグループに演奏してもらったこともありましたよ」
 
「あとは、寿町にある市営の野外駐車場で映画上映会などもやりました。昔はその向かいに所沢歌舞伎座という、芝居小屋から映画館になった建物がありましたからね」
 
――そのメンバーで、「井筒屋町造商店」も立ち上げられたのでしょうか。
 
「そうですね。そのメンバーの間で、ゆくゆくは町おこしの拠点となるような施設をつくろうという話があり、商工会議所や市の商工課がバックアップしてくれて、2005年に開店しました」
 
――元町に移転された現在は、より多くのイベントを企画されていますよね。
 
「そうですね。この辺りは昔は旧町といってね、ちょうど元町交差点からファルマン通り交差点までの通りが所沢のメイン通りでした。銀座通りは、江戸と秩父を結ぶ『江戸道』だったのですが、三と八がつく日に市が出たんです」
 
「所沢飛白をこの周辺の農家の人達が副業で織って売っていたのですが、それを買継商が目を付けて、お金を出してどんどんつくらせ、織物市をやったわけです。そうして、所沢は日本三大絣の産地と言われるほど発展していきました。江戸時代には、象や虎が見世物で来るくらい賑わっていたそうですよ」
 
「このような所沢の文化をみんなに知ってもらって、それで町おこしをやっていこうと思い、新三八市を発案しました」

 

三八市

大正時代の三八市

三八市

昭和14年頃の三八市


新 三八市

多くの人で賑わう「新 三八市」


「他にもね、夏には『野老澤行灯廊火(ところざわあんどんろうか)』というイベントをやるんです。これは江戸時代などに地口絵(じぐちえ)といって、だじゃれとか歌舞伎文句の一つなどを絵にして、行灯にしていた祭りなのですが、おばあちゃんから引き継いだものを私がコレクションしていたので、それを貼ってね。だいたい100個以上つくるんですよ」
 
「その時には各商店を回ってスポンサーになってもらったり、facebookで当時立ち上がった所沢会のメンバーにも参加してもらったりしてね。そうやってさまざまなイベントをやりながら、昔はこういう文化があったんだよということを伝えていければと思うのです」

 
野老澤行灯廊火

野老澤行灯廊火

 


――町おこしの企画を続けてきた中で、今までに大変だった事はありませんでしたか?
 
「展示もパンフレットづくりなども全て自分で行っているから、こうやっていつも追われていますけどね。でも追われている方がいいんですよね。こうしてやっていると、みんなが集まってきて、助けてくれますしね」
 
――銀座通りは駅から離れていますが、その辺りのハンデを感じたことはないですか。
 
「今はワルツなど、駅の方まで巻き込んで何でもやっていますからね。今のまちぞうの前身でもある『井筒屋町造商店』を立ち上げた当初は、なかなか駅周辺の商店や町内会の人達に意識してもらえなかったのですが、今では逆にイベントの会長をやってもらっているぐらいです。だからハンデなどは全く感じなくなりましたね」
 
――町おこしをやっていて、何か課題に感じている事はありませんか。
 
「あまり問題になっている事はないのですが、できればマンションの方など、もっと新しい人達に主催者側として参加してもらえれば嬉しいですね」
 
「イベント時には周辺の方から音などについて苦情を寄せられることもありますので、必ずマンションの管理組合などに断りを入れる所から始めているんです。でも、もっとマンションの方達と交流を持ち、イベントに参加してくれる方が増えれば、この近くて遠い関係性も少し変わってくるのではないかと考えているところです」
 
「銀座通りは商店が『ないない』って皆さんよく言うのですが、それなら商店をつくればいいと思うのですよ。三八市みたいな市を定期的に日にちを決めて開催すればって。この日は古本だけを売る日にするとか、野菜、陶器、ラーメンだけを売る日をつくるとかね」
 
――それは面白そうですね。ぜひ実現してほしいです。
 
「若い人達がもっといろんなアイデアを出し合って、思い切った事をたくさんやってくれれば嬉しいですよね。イベントにしても動くのはいつも年寄りが中心なんです。テントを張ったり、片付けなども自分達が中心で行っている状態。ですので、若い人達にもう少し参加してもらえればありがたいですね」

 


所沢銀座通り

タワーマンションが並ぶ所沢銀座通り

 
 

所沢飛行場は日本の航空技術の発展を支えてきたところ。
だからこそ航空発祥の地としての町おこしに力を入れたい

 


――幼い頃の所沢の思い出話を、もう少しお聞かせ願えませんか。
 
「私が生まれたのは昭和12年ですから、戦争の時代も、もちろん知っています。所沢の飛行場が爆撃されたことなどもね。ちょうど私の実家のはす向かいの道(ファルマン通りから所沢航空記念公園の方に向かう道)は、飛行機新道と呼ばれる、所沢停車場(現所沢駅)から飛行場まで飛行機を運ぶためにつくられた道でした。そこを戦時中は低空飛行で米軍の航空機が降りてきたので、乗っている人の顔が見えたんですね。それが、私が初めて外国人の姿を見た瞬間でした」
 
「終戦になって、兵隊さんが所沢に進駐してきたのもよく覚えています。また、米軍基地が兵器庫となり、朝鮮戦争の時は戦車の修理などをする場所だったんです。多い時では6000人の雇用があるなど、軍需産業を軸にさまざまな面で所沢の経済は回っていたようなところがあります。そういう意味では、子供の頃は完全に飛行場の町というイメージでしたね」
 
――戦争の頃のイメージが全くないので、それは貴重なお話ですね。
 
「我々の年代層があまりいなくなってしまったので、このような話もあまり聞く機会が少なくなってしまっているでしょうね。だからこそ、私は歴史の伝承ボランティアをやっているんです」
 
「それとね、所沢の飛行場というと皆さんすぐに戦争と結びつけたがるのですが、違うんですよ。大正8年にフォール大佐という人がフランスから日本に航空技術を教えに来たことを機に、日本でも本格的に航空技術を学ばせようと、所沢に初の飛行学校を開設するんです。その後国産機で初めてロンドンまで飛んでいったパイロットなど、優秀なパイロット達がみんな所沢から巣立っていきました」
 
「だから”航空発祥の地”という位置づけは、初めて飛行場ができたからなのではなく、初めて航空学校を開設した所からもきているのです」
 
――今回の企画展でも所沢飛行場にゆかりのある人々について展示されるのですよね。
 
「そうなんです。毎年4月は所沢飛行場についての展示をやることに決めていまして。今回は『所澤飛行場の歴史とゆかりの人々』というテーマで、そうした優秀なパイロットなども紹介した展示を行います(2018年4月25日まで)」
 
「そういえば、日本で最初に飛んだ『アンリ・ファルマン機』という飛行機があるんですけど、実はまだ残っているんですよ」
 
「どこに残っているかいうと、現在は入間基地にあるんです。終戦の時にアメリカが持って帰って、日本の航空50周年記念か何かを機会に返されて、しばらくは秋葉原にあった交通博物館で展示されていました。だけどそこが閉館したので、元々軍の飛行機だからということもあり、自衛隊が持ち帰ったのです」
 
「私はね、それを何とか所沢に戻せないかと思って市に働きかけているところなんですよ。航空発祥記念館に展示したいと思って、館長さんにも『戻ったらスペースを空けてくださいね』って伝えてあるんです。それが実現したら”航空発祥の地”としての本格的な町おこしをやっていきたい。これが私の夢と目標になっています」




 

――最後に、所沢をこんな町にしていきたいという思いをお聞かせ願えますか。
 
「所沢は交通の便がよくて住みやすいですし、この辺りも若い人が増えて子供の遊ぶ姿がたくさん見られるようになってきました。中には私のホームページを見て、所沢に住んだという若者もいるぐらいです。最近では、東京の方からも来て、所沢の町歩きをしてくれる人が増えてきましたしね」
 
「ただ、みんなもっと郷土愛というのを育ててほしいんですよね。文化財保護といっても、町の歴史や文化を知らなければ、なかなかそういう気持ちには至らないですからね。講座などで感想を書いてもらうと『こんなに魅力的な町だったのか』『もっと所沢について知りたい』という声を多くいただきます。町の事を深く知れば、もっと町の事が好きになるんですよね」
 
「展示の時に限らず、私はほとんどこの野老澤町造商店におりますので、何か知りたい事や聞きたい事がありましたら、いつでも気軽に足を運んでください」
 


野老澤町造商店

企画展などのお知らせはHPにてご覧いただけます <野老澤町造商店HP>

 
三上博史


 
 

- インタビューを終えて -


展示前のお忙しい日だったにも関わらず、三上さんにはたくさんの所沢の歴史や思い出について話していただきました。あまりに詳しくご存知なので、お話を伺っているとその頃の情景が目に浮かぶようでした。
 
それにしても所沢はなんて幸せな町なのでしょうか。所沢のことをそれだけ知り尽くし、自ら率先して町おこしを行ってくれる方はそう滅多にいるものではありません。だからこそ、三上さんの周りにはいつでも自然と協力者が集まってくるのでしょう。
 
歴史の伝承も押し付けるのではなく、イベントを通して楽しく伝えようとする三上さんの発想には、これからの町づくりへのヒントが多く隠されているように思いました。


INTERVIEW

 

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